2 冬に舞う
あの日からずっとフワフワした地面の上を歩いているみたいだった。
弟のアキラには「姉ちゃん、何浮かれてるの?」と言われた。
原因は分かっている。
あの人だ。
雪の日に出会ったサニーサイドという人。
花を全部買い取ってくれた物好きな人。
また今度歌を聞かせてと言われた。
だから、また会えることを期待してしまう。
戯れに言った言葉かもしれないのに。
セントラルパークに花を売りに行くのが楽しみなった。
花がいくら売れなくても、前みたいに落ち込まない。
私は毎日笑顔で花を売る。
でも、なかなかあの人には会えなかった。
(もしかして紐育には住んでないのかな?)
遠い所に住んでいる人なのかもしれない。
それとも、やはりただの戯言だったのかもしれない。
そんなことを思い始めたある日だった。
「花を頂けませんか?」
後ろから声を掛けられ、振り向いて、息が止まりそうになった。
あの人だった。
「…サニーサイドさん!」
サニーサイドさんは目を見張った。
「名前覚えていてくれたんだね」
「もちろんです」
忘れるはずもない。
毎日毎日会いたいと思っていたのに。
「ベンチに座らない?」
そう誘われてベンチに座る。
サニーサイドさんも私の隣に座った。
腕の触れ合いそうなほど近くに男の人が座っている。
(恥ずかしい…)
顔から火が吹きそうだった。
貧民街という狭い世界で育ったせいで
家族や同年代の女友達以外の人とはあまり話したこともない。
それなのにこんな近くに…
「顔が赤いよ。大丈夫?」
心配そうに訊ねられて、必死になって首を何度も縦に振る。
脚にふわっとピンク色のコートが掛けられた。
生地の薄い女物のコートだった。
「
はいつも同じコートを着ているなと思っていて…
もう少し暖かくなったら着てくれないかい?」
「え…」
そんなにいつも見られていたのかと思う。
「気に入ってもらえないかな?」
「いえ、素敵なコートです。でも、頂く理由が…ありません」
「
に一番似合うコートだから。それが理由だよ」
着てみてと言われて、着ていたお母さんのおさがりのコートを脱ぎ、
立ち上がってピンク色のコートを着る。
淡いピンク色で腰に少し大きなリボンのついたハーフコートは
サイズも私にぴったりだった。
「可愛い…」
ブティックのウィンドウに飾ってありそうなコートにため息がでる。
「気に入ってくれた?」
「はい。でも…ほんとにいいんですか?」
「もちろんだよ」
サニーサイドさんが手を伸ばし、私が上手く蝶々結びできず、
少しへしゃげてしまっていたリボンの形を直してくれる。
それだけのことで心臓が飛び出しそうなほどドキドキする。
「さあ、これでもっと可愛い」
サニーサイドさんがにっこり笑った。
「ありがとうございます。あの…ほんとに嬉しいです」
精一杯お礼を言った。
「いいよ。この程度のこと。
素敵な女性に服を贈れるのは嬉しいことだからね」
そんな言葉からもやはり相当の地位にある人なんだと思う。
「歌、聞かせてくれないか?」
約束だったしねとサニーサイドさんは言う。
「私なんかの歌でよければ…」
上手いかはともかくとして、歌うことは大好きだ。
何を歌おうか少し迷ってから「primavera」を歌い始めた。
primaveraとはイタリア語で春のことだ。
コートの淡いピンク色が、日本で春に咲くという桜を連想させた。
厳しく長い冬が終わりと生命が息吹き喜びに溢れる春の訪れを情熱的に歌い上げる歌。
私の大好きな歌のひとつだ。
せめてもお礼に心をこめて歌った。
パチパチパチ
心地よい余韻に浸っていたのを拍手で現実に引き戻される。
いつの間にか私の周りには数人の人が集まってきていた。
恥ずかしくなって、急いでベンチに戻る。
「春は好きかい?」
「はい」
コートの色が桜を連想させて「primavera」を歌ったことを話すと、
「
は桜を見たことがあるかい?」
と訊ねられた。
「ないです」
日本に行ったこともない私が桜を見たことあるはずがなった。
ただ、お母さんの言葉から清楚で可憐な花なのだろうと想像を膨らませていたのだ。
「桜ならワシントンに咲いているよ」
「知りませんでした…」
「見に行く機会があるといいね」
「見てみたいです」
そんな機会はないと思うが、是非見てみたいと思う。
きっと美しい花なのだろうと思うから。
「君みたいに綺麗な花だよ」
(……ぇ…えっ?)
耳まで真っ赤になってしまう。
花に喩えられるほどの顔ではない。
日本とブラジルの血が流れているから
エキゾチックな顔立ちだとはよく言われるが。
それも褒め言葉だとは思ったことがない。
「おっと、もうこんな時間だ。行かないと…」
申し訳なさそうにそう言われると、
真っ赤になって心臓をバクバクさせていたのも忘れて、
瞬時に寂しくなる。
「また、会いに来るよ」
そんな言葉を残してサニーサイドさんは去っていった。
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